4/16(木) 宮古島へ
正午過ぎ、新潟空港から伊丹に向け飛行機が離陸する。この時間に短い昼寝をする習慣があって、このときもいつものように眠気に誘われるままに眼を閉じた。そして薄ぼんやりした意識のもと尾てい骨の鈍い痛みを感じ眼をひらく。すでに大阪上空に到達。着陸態勢に入る直前だった。
ぼくは飛行機に自前の円座を持ち込んで座席に座っている。座高が微妙に高くなって違和感は座り心地は悪くない。長時間座るには円座が必須だった。もちろん痛めてしまった患部の保護のためで、今回の宮古島をDNSするぼくの判断がいかにやむを得ない事情なのかを表すアイテムでもあった。
今回、先輩アスリートのKさんと共に宮古島を目指す。同行は初めて。ちょっと不思議な感じがするが、こうなる縁があったのだろう。
伊丹空港内の移動の最中、お尻のあたりになにか詰め物をされたような感覚になって気になって仕方がなかった。テーピングで患部を固定しているが油断はならないようだ。
空港で那覇行きの便を待ちながら大会についてのあれこれ話していた時のことだった。那覇へ向かう機材に整備不良が見つかり代替え機を準備するので、伊丹出発は18時過ぎ那覇空港到着は20時を過ぎる。そうなると那覇からの各離島への乗り継ぎはできないという旨のアナウンスがあった。つまり本日中に宮古島に着けなくなったのだ。
ぼくらは顔を見合わせる。離発着の時刻が遅れることはあるが、ここまで計画変更を求められたのは初めてだった。予期せぬ事態とは額面通り予測不能なのだ。
搭乗口で館内の食事代として1、000円分のチケットを受け取り、乗り換えの変更手続きのために航空会社の窓口へ向かう。乗り継ぎを待つ間に搭乗口を出るのは初めてでドキドキしたが、お陰で伊丹空港の様子を眺めることができた。
似たような状況の乗客の列に連なりながら、宮古島で合流予定の副キャプテン殿に状況を報告してレンタカーや宿のキャンセルをお願いして、もしも那覇で宿が取れないときはご自宅に泊めてくださいとお願いをする。当然とも言わんばかりに快諾をいただき、ひとまず宿を担保。つづき実際の宿泊の確保に取り掛かる。那覇滞在時には確実に利用する赤嶺のホテルに連絡をしたところ部屋を用意していただでけることとなった。荷物が少なくはないので空港から近い場所はなにかと助かる。
航空会社の窓口で翌朝の宮古島行きの席を確保。変更の追加料金はなく、また嬉しいことに宿泊費用も上限はあるが補償されることがわかり安心する。おなかもへったので遅い昼食をとり、那覇行きの便を待った。
伊丹から那覇へ向かう機内で機内サービスのコーヒーを頂いた。レース前ならば絶対に口にしない。黒い液体が舌を、喉を通るのが感慨深く、ささやかながらに幸せを感じてしまう。小窓に黄昏の空が映る。闇のとばりと陽の残光が溶け合い境界線ができていた。右の席では外国の男性がポテチを貪り、すっかり袋を空にしてパンパンと手の塩を解いている。それ横目に、残ったコーヒーを口に流し込んむ。今回の旅はいつもとは相当に異なっている。本来ならばレースを兼ねた遠征なのだが、その主たる目的を喪失してしまっていた。なので、いつも以上に感じたことを言葉に落とそうと思った。
4/17(金) 宮古島入り、準備開始
赤嶺から始発のゆいレール(モノレール)で那覇空港へ向かい、搭乗手続きを行う。同じような乗客が多いのだろうか、予想以上に時間は掛かったけれど無事に宮古島へ向かう飛行機に乗ることができた。
宮古島空港の建物から外にでると、強い陽射しと高い湿度に怯んでしまいそうになった。まだ午前8時半だというのに!新潟とはまるで違う気候を皮膚に感じながら、副キャプテンが手配してくれたレンタカーに荷物を積み込んだ。経年からくる使用感が滲む車だった。ハンドルに慣れて置く必要もあったので宿へ向かう前に伊良部大橋へ向かう。宮古ブルーと呼ばれる青く透明な海にかかる伊良部大橋を自分の運転で進むのは初めてで気分はあがる。
ぼくは選手のピックアップのため宮古島空港へ向かう。予定の到着時刻から40分ぐらい遅れて副キャプテン殿にMちゃん、同じくM君の3名。伊是名トライ以来、5ヶ月ぶりの再会にグータッチ。気の置けない仲間たちだ。
この待ち時間の間、空港のみやげもの屋さんを物色する。これまであまりしたことのない散策に心が躍った。数あるおみやげの中でコミカルに描かれたパートゥンのTシャツがフックして思わず購入。さっそく自分のお土産ができた。小腹も少し減ったのでポークたまごおにぎりを頬張る。ささやかな観光気分だ。
空港の目と鼻の先にある宮古ドームへ移動して選手登録を行った。大会運営にDNSの旨を伝えると、事務局の方とメールでやりとりして欲しいと言われ、届けは受理される。あっけなく物事は進んだ。これで一応の区切切りついたのだけれど、まったく心は晴れない。自分にしかできない判断は自分で責任を負うしかない大会に出ようが出まいがそれは同じだ。しかし、現地を訪れてまでの判断はこれまで経験がないので、これ以降、どういう身の置き方をすればよいのか判らなかった。どうすれば判断の責任とやらが取れるのかがよくわからない。この場合の責任の取り方とは一体なんなのだろう?滞在期間で見つけられると良いが、この時点では全くもって判らないでいた。
昼食、宿のチェックイン、荷物整理、談笑。時間の経過はあっという間で、このたび宿が一緒のはじめましてのHさん、そしてまだ選手登録を済ませていないKさんと共に競技説明会の会場へ向かう。
物販ブースを散策していると、今回、絶対に会いたかったご婦人に会うことができた。実のところ、会うのはこのタイミングしかないと思っていた。
ぼくはすぐさま駆け寄り、手を握り、お会いしたかった、元気になって本当によかったと伝えた。すると、彼女はご自身の近況を手短に話した後、前置きもなく、あなたが今回こうなったことには何かの意味がある。今は辛いかもだが生きているんだからなんとでもなる、と仰った。
生きているんだからどうにでもできる、なんて科白はそうでるものじゃない。今の彼女だからこそ吐ける台詞だ。頬にピシャリと平手打ち、冷水を浴びせられたみたいにハッとなった。そしてほんの一瞬だけ涙腺が緩んだせいで鼻がグズる。そのまま話していると気持ちが落ち着かなくなりそうなので、咄嗟に周囲の方に言葉を向けた。
今回の忘れられないひと幕である。
参加する選手すべてが眩しくて、自信に満ち溢れる選手が妬ましく思えた。パーティに脚を運んだこと、そもそも宮古島に来てしまったことを悔やんだ。またそう思うほどに惨めさが増し、幾重に積み重なった己の卑しさに辟易する。そういう思いがどこから来て、どう消化されねばならないかを考えた。
楽しみは喜びと豊かさを、苦しみは生をより実感する。今この心理状況に蓋を閉まってはダメな気がした。(つづく)

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