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2026年3月17日火曜日

日曜は板橋シティマラソンのはずだったが 2026.3.9~3.15

 3/14(土)。朝、天気は良いとは言えず、気温も低かったので、フルマラソンにむけた最後の調整は屋内にしようと午前中の早い時間からジムへ赴いた。
 バーベルスクワットをやりたくてアップほどほどに60㎏を8rep×3set。そのあとトレミ。スロジョグから入って5分半ペースまで上げて30分程度。大汗をかく。その汗流しというわけではないけれど、プールでインターバル泳をして上半身を動かす。これにてこの日の調整は終了。早々にジムを後にして100均ストアへ向かった。
 目的地の途中、歩きながら何ごとかを考えていた。それがなんだったかは思い出せない。ショートカットとして屋内の連絡通路を使おうと、手押し扉を開けて建物へ入る。すぐ左手に階段があり地下への通路に繋がっている。
 左手をダウンジャケットのポッケをまさぐながら、階段を下りようと右脚を着いた、ハズだった。シューズの底がキュッと鳴った刹那、雨つゆで濡れていたのだろうか、着いたはずの足を滑らせ身体の体勢を崩し右へ倒れる。立て直そうと左に身体を起こしながら、背をのけぞるようにして階段から踊り場へ落ちた。左尻を強打、あわせ尾てい骨を打った衝撃で息ができず、立ち上がれなかった。
 誰もが使う通路ではないので人はいない。しばらくうずくまった。しかし、そうもしていられないので壁づたいにゆっくり立ち上がって大きく息を吸った。気持ちわるい、吐気がする。尻部への衝撃が強すぎて肛門が緩み、前に後ろに漏らしてしまいそうな感覚があった。これまでの人生で経験したことのない衝撃が身体を貫いていた。
 簡単に言うと足を滑らせて階段から落ちたのだが、落ち方と打ちどころが悪かった訳だ。 
 青色吐息でなんとか自宅へは戻ったが、座るのも横になろうとするのも辛い。骨盤あたりを「腰」と呼ぶが、字の表すように身体の要(かなめ)であった。何をしようにも強い痛みが臀部を貫いて身体が動かせない。こうして、これ以降の予定はすべてキャンセルして養生に充てることになった。

★トレーニング備忘録
3/9(月) 出勤前にジムのスパを利用。前日の疲労感があって身体を温めたくなった。そして終業後はいつものようにジム、プールへ。月曜のプールは閑散としているイメージがあるが、それを覆す盛況ぶりに驚いてしまう。よく見ると年配の方々が多い。なにかあるのだろうか。そんな具合なのでレーンシェアして50mインターバル泳をメインにひたすら行ったり来たりする。水中での姿勢やグラインドについてあれこれこ試す。

10(火) 朝ジム、筋トレ。いつものメニューを淡々とこなす。ロータリートルソー54kg 左右10rep×2set、バタフライ 32k 10r×3s、ラットプルダウンクローズドニュートラルグリップ45k 10r×3s、ノーマルグリップ45k 8r×3s、インナーサイ 54k10r×3s、バーベルスクワット 60k8r×3s、スキックバック10k 左右10r×3s、サイドレイズ9k 10r×3sの8種目。この筋トレをもって翌日の終業後まではトレオフとする。

11(水) 終業後はジム、トレミ。目前にフルマラソンを控えているので距離は割りびいて臨む。5分24秒/㎞で入って5㎞までは定ペース。以降ビルトで21秒、18秒と段階的にペースを上げて8㎞走で終了。
 こういう積み上げをしぶとくやっていこうと思う。余裕を残して終わったつもりだったが、翌朝のハムの倦怠がなかなかだった。

12(木) 終業後ジム、いつのストレッチをいれてエアロバイクへ。30㎞走を目標に63分。ブリックランまでには至らずに終了。

13(金) 帰宅後ロード6㎞。重い脚を作るべく最低限の負荷はかける

14(土) 午前中ジム、バーベルスクワット、トレミ5㎞とちょいスイム。この帰路に事故は起こる。

15(日) 休養

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
3/9(月 スイム1.5(26)
10(火)  筋(18) アクテイブレスト
11(水)  トレミ8(43)
12(木)  エアロバイク30(63)
13(金)  ロード6(35)
14(土) 午前 筋(-)、トレミ5(29)、スイム0.6(10)
15(日) 休養
3/9~3/15(km)…S2.1・B30・R19・Re.2  

2025年10月20日月曜日

新潟シティマラソン2025のこと。

 今年は走りやすい気候だった。湿度はちょっと気になったけれど、雲がかかったお陰で陽射しに照らされることはほとんどなく先頃まで続いた獰猛な暑さが懐かしく思えた。季節の移り変わりを感じさせるマラソン日和だった。
 コースは例年通りで、みなとトンネルを往復する前後と西海岸の一部、コースの地点としては約12kmから22kmの間を除けば難しくはないコース形状。
 沿道には連休が手伝って声援も多く、新潟市内中心部を駆け抜ける大会らしいにぎやかな雰囲気がランナーを盛り上げた。総じて実力を十分に発揮できる環境だったと思う。

 ぼくの計画はave.5分30秒ペースのネガティブ走。序盤は5分4、50秒ぐらいで入って、終盤は5分20秒台を目指し3時間50分前半を目標にゴールをめざす。
 スタートから序盤は集団走となり6分近いペースの入りになった。それと湿度のせいだろうか、驚くほど発汗して手持ちの水分補給を活用しながら各エイドでしっかり水分補給をした方が良いと判断する。

 (いつもなら道中のあれこれを書くのだが今回は割愛します。)

 前半から中盤とペース通り余裕を持って気持ちよく走ることができた。
 そして後半。関屋分水から信濃川を遡上するように土手を走る30km以降、流石に疲労感はあったけれど目標ペースを刻んだ。だが35kmを過ぎたあたり少し怪しくなり37kmを過ぎたところで脚が止まる。結局、市陸にゴールしたのは4時間3分台とサブ4に納まらなかった。
 32km地点でスパートに備えてこの日3つ目のマウルテン白(カフェィン入り)を摂ったのだけれど、34kmを過ぎたあたりでだんだんと気持ち悪くなって吐き気を催してしまい、それがペースダウンのきっかけになった。過剰にカフェィンを摂ったときの状態に似ていたので、恐らくこの補給が原因だったのではないだろうか。後半の補給内容と量や体力消耗に伴う腸管の吸収力低下について調べる必要がある。
 しかし、吐気がペースダウンのきっかけだったとしても終盤にペースが落ちるのはここ数年ではいつものことで、無理を押さなかったのは執着の欠如である。フルマラソン特有の終盤の苦しみに抗うことなく、ぼくはさっと白旗を挙げたのだ。傍らを過ぎるランナーの邪魔にならないよう信濃川の土手の端っこを歩きながら、ここに至るまでを振り返りながら諦観も悲観もなくやり切った感触にひたっていた。ゴールはまだ先だというのにここまで軽快に走れたことを愉快に思っていた。
 余力をのこして4時間以内で完走できる走力をいかに手中に収めるかがぼくにとって重要な課題なのだ。ある時期からシティ対策の練習を進め、段階的に漸くここまで辿り着いた。ペースにしてもう15秒、欲をいえば20秒ぐらい速い中距離練習をこなせられるようになっていたならば結果は異なった筈だ。
 屁理屈にしかならないだろうが、今回は現走力の確認ができたことに満足している。これ以降もネガティブ走を意識したトレーニングをおこなって、まずは11月の伊是名トライアスロンのランでパフォーマンス発揮できるよう努めたい。そしてその先ににあるレースに向けてさらに積み上げていきたい。

 この新潟シティマラソンは、フルマラソンを走るようになってから必ず参加している大会だ。地元大会ということで条件反射的にエントリーしているのだけど継続参加し続けている大会の一つで、ぼくにとっては毎年楽しみにしているお祭りみたいな大会だ。
 初フル参加、初サブ4そして初サブ3.5達成などなど、嬉しいことも悔しいこともだいたいの「初めて」を味わったのがこの大会なのだ。また今年も思い出に残る内容になりました。
 大会に関わったすべての方々、それから沿道に脚を運んで応援をくださった皆さんのおかげで楽しく走ることができました。また来年もよろしくお願いします。ありがとうございました。(了)

2024年12月9日月曜日

第38回那覇マラソンのこと。2024.11.30~12.2

 那覇マラソン当日
 AM5時の目覚ましアラームと共に起き、寝ぼけまなこで朝食を摂る。枕が変わった割によく眠れた。実は外泊に欠かせない眠剤を忘れてしまったがなんとかなった。深夜と朝方にパトカーのサイレンが聴こえたのだが・・・。
 AM7時を少し回った頃で奥武山(おうのやま)公園を目指してホテルを出る。空は快晴。涼やかな空気が街に流れていた。那覇市内、空港に近い場所なのだが意外と静かだ。定期的にゆいレールの走る音が聞こえる。規則正しい機械音は悪くない。ぼくはアップを兼ねてジョグで奥武山公園の待ち合わせ場所へと向かった。同じ方角を目指すジョガーが散見された。

 チームの面々とは、おおよそ1ヶ月ぶりの対面。なんだか新鮮味がないよなー、と副キャプテン殿。違いない、ぼくもそう思う(笑)。ついこのあいだ伊是名島で一緒に過ごしたばかりだし。とはいえ、なんだかんだで再び仲間たちに会えるのは嬉しい。ところで、今日の副キャプテン殿は彼の職場での参加らしく、チームテチのユニフォームではない。つかさずMさんが、今日はテチじゃなくてテキだと上手いツッコミを入れ場を湧かせた。

 彼ら沖縄の友人らは、汗を流すことを通じ人のつながりに重きを置いている。その姿勢にぼくは心から共感している
 何より否定がない。一切ない。懸命であることを肯定し、それぞれの楽しみ方を批判しないし羨んだりもしない。そして少し話は逸れるが、彼らは子供たちを大切にする。目線を合わせるのが上手い。田舎の好々爺の集まりと軽んじらるかもしれないが、生きとし生けるものすべてに対して優しい。困ったものにでくあわさば、必ず手を差し伸べる。
 沖縄という環境、あるいは文化や慣習がそういう性質を生むのかは判らない。たまたま出会った彼らがそうなだけかもしれない。なんであれ、それはぼくにとって、たまらなく心地く自分を保つことができる。マラソンは動機や手段であって皆と顔を合わせるのがこの遠征の真の目的なのかもしれない。

 さて、マラソンに話を移そう。ぼくのグループは「E」。勝手に昨年同様に「C」ぐらいだろうと高を括っていた。似た走力のMさんも同じく「E」だった。しかるにスタート地点までの距離が随分あった。今大会の参加者は27,000人と聴いているが、この位置から序盤にジョガーを捌きながらのペース維持は少し難しそうだった。
 恒例の皆で円陣を組んで「安全第一」コールを合わせたあと、ぼくとMさんの2人は指定されたグループに移動した。互いの練習環境とか宮古島トライの抽選結果などについて話し合っている間にスタート時刻はやってきた。ふと空を見上げると、青い空にたくさんの白い雲が流れていく。沖縄本島上空に吹く風は強いのだろうか。

 定刻AM9:00、号砲が轟く。ぼくらは拍手をしながら周囲と歩調を合わせてながらスタート地点へと歩き出した。奥武山公園を抜け、川を架かる橋に向って右折する頃にはジョガーの集団は小走りになった。ぼくもすぐにその1人になった。遠く前方に目を向けると、ずっと先の先まで色とりどりのジョガーで埋め尽くされていた。沿道からはひっきりなしに声援が飛び、参加者の名前の書かれたウチワやらボードなどで飾られいた。

 予想通りおおよそ5kmを過ぎる(通過30分)までは身動きが取れなかった。果敢に挑戦してみたがジョガーの壁はどうにもならない。国際通りあたりの道の幅員がそうさせるのだ。序盤はチグハグなペースとなり、それなりに汗をかいてしまった。
 しかし2度目の参加というアドバンテージもあり、コース見当がついたので冷静な判断もできた。
 順を追って。例えばYMCAは笑顔で通過(笑)。前回は使命感で振りをやってしまったが、今回は宣言通りスルー(笑)。それより、そこを超えたあたりにいらっしゃると教えられたテチ応援団を見つけようと沿道に気を配った。しばらく進み、あちらから見つけてもらい名前を呼ばれたときは嬉しかった。遠征マラソンに関わらず、名前を呼ばれ声援を受けるというのは代え難いものだ。
 10km(通過57分)あたりの起伏は焦らず進む。そして良くない記憶としてクレジットされていたバイパス道の坂は、時計を気にせずに呼吸が乱れない程度で走ったので辛い思いはしなかった。きっと初回よりも良い記憶として上書きできたはずだ
 このずっと先の具志頭(グシチャン)の交差点までは道なりに進むのだが、背の高いサトウキビ畑を左手にして上り坂が次々に現れる。それらの坂もぼくの中では印象が悪かったけれど、この途中、京都のYさんと偶然にお会いして気を紛らわすことができたので無難に進められた。Yさんのお陰でここも良くない印象が払拭された。

 のぼりが続く間はとにかくペースを抑えようと気を配っていたつもりだったが20km地点通過で1時間50分と、ちょっと頑張りすぎてしまったようだ。
 計画では上りを加味して55分で十分だったのだけれど。上り下りが続くのでキロラップが把握しずらいことに改めて気がついた。
 その20km付近、上りのピーク。左手に広がる海岸や海が美しい。そしてそこから長い下り坂が始まる。平和記念公園、ひめゆりの塔あたりを通過しながら、大掴みだが28km地点まで下り基調が続く。このあたりまでは下りの勢いを借りてよいペースを刻むことができた。

 30km通過は2時間45分。残り12km。やや苦しいがなんとかなりそうだった。5分半キープが目標だった。この辺りで再びテチの応援団から名前を呼ばれ、振り返るが手を挙げて答えるのが精一杯だった。
 すぐに豊見城市(とみぐすく)に入った。沿道の声援がさらに賑わいをみせ、補給に事欠かなくなった。ゴールの奥武山まではそう遠くはないように思えた。しかし、ちょっとした上りが脚にこたえた。腰を落とさぬよう何度も姿勢を正す。背筋を伸ばす。徐々に疲労感が募り走り続けられそうになくなってきた・・・。
 35kmの里程標で脚を止め、大きく息を入れる。歩いては走るをくり返す。しかし、ほんのちょっとした上りが堪える。平坦や下りは走れるが上り傾斜では脚が止まってしまう。
 予定通りにはいかない。小禄バイパスの緩やかな上りは、今回はほとんど走ることができなかった。昨年のような4時間を切るぞという強い想いは、早々にどこかに消え失せてしまっていた。この辺ではゴール間近の光景を楽しもうと頭が切り替わっていた。

 ネットタイムで4時間8分、グロスは12分。本来はあまり言葉にしたくないのだが、二度目のフルマラソンから継続できてていたサブ4走破がついに途絶えてしまった。
 いくつもの言い訳がある。夏からここに至るまでのレースローテーションが影響したかもしれない、この日の環境やコース設置もあったかもしれない。いずれにせよ結果は真摯に受け止める。いまのぼくには、そういう謙虚さが必要なのだろう。
 そんなふうに時計は思うようにはいかなかったが、このマラソンに参加できたことに一点の悔いはない。沖縄、那覇でこうしてマラソンができたことは2024年の締めとなる楽しいイベントであった。でき得ることならば第39回の同大会に参加したいと考えている。もちろん時計も挽回するためにも。

 結びに。数あるマラソン大会ですが、こうして縁あって参加できることは偶然ではないと思います。この大会に関わったすべての人びと、スタッフ、選手、そして沿道の人々に感謝と尊敬の意を表したいと思います。ありがとございました。(了)
 
 

2024年10月20日日曜日

第40回新潟シティマラソンのこと 2024.10.13 

 「今日は走るには暑いです。給水はしっかり取って、飲み残したら身体にかけてください。」スタート前、高橋尚子さんがお話しをしていた。この日は絶好の秋晴れ。予報通り気温は高くはなく穏やかなだった。だがランニングをする環境のそれとしては高橋さんのいう通りだった。このところの高温下の生活に慣れてしまいこの日の気温は大したことのないように感じていたが、ぼくの基準がズレているだけだった。
 期待や不安、あるいは脳内分泌物で冷静になれないぼくらランナーに、彼女はいつも助言を与えてくれる。彼女の言葉は、そう言われればそうだよねと素直にうなずけるものが多い。彼女は、ぼくがこの大会に参加しはじめた頃からゲスト出演されているが、小雨の降る日にもスタート直前に助言があり、今もそれもはっきり覚えている。
 大会の風物というのは彼女に対して失礼な表現かもしれないが、それ以上の存在になり得ているとぼくは思っている。

 さて本題の備忘録へ。ここは次走の那覇マラソン前哨戦だ。走破目標は3時間40分台、基本ペースはキロラップ5分半、30km以降にペースを上げられれば(ネガティブ走)合格点。思惑通りにできる担保はないが無理のない妥当な計画であり、走力の現状を把握する力試しなのだ。
 ネガティブ走は高橋尚子さんの恩師である小出監督のランニング教本の受け売りで、ぼくの中長距離走の基本の「キ」である。このところのフルマラソンではほとんど実現できていないが、目指すところはいつもそれだ。前半余力を残し、後半の垂れるところで上げにかかって結果的にイーブンで走り抜けることをめざしている。

 定刻スタート。登録カテゴリの最後方から歩を進める。思いがけないGarminの誤動作で正確な㎞あたりのラップがわからなかったが実時間と里程標を見比べながら把握に努めた。
 10km(柳都橋)は53分、20km(旧双葉中付近)1時間45分、25km(タコ公園)2時間11分、30km(関屋分水)2時間36分。これらは通過タイムランニングアプリを参照しているが、大体そんな感じだった。
 スタートから10数キロ中盤(港トンネル内)まで緩やかにペースは上って、以降ほぼ定ペースのkmラップ5分10〜20秒で落ち着いていた。計画との差異は言わずもがなだがで、一般的ないい方をすれば突っ込んでしまっていた。長距離競技の肝は自制だと思っているが頼りのGarmin不調によりタガが外れてしまった。
 そんななかではあるが、今回ことのほか印象に残った出来事は、10km過ぎで摂ったマウルティンGELカフェイン入りの補給剤が抜群に効いたことだ。
 ロング前にはカフェイン断ち(アルコールも)を数日前からおこなってレースでの効果を上げるように努めている。ようやくこの大会でマウルティンGELのカフェイン入りを使用して、実は佐渡トライのランで中身を落として摂り損ねた、その衝撃的ともいえる効果を体感した。次回のレースでも使用して所見をまとめたいと思う。

 問題の後半、30km以降である。35kmまでの5kmは29分、40kmまでのそれは31分掛かっている。31,2km付近で減ペースがはじまった。36kmの里程標ではかろうじて6分を切る程度は行けそうだったが、37kmを超えた信濃川の右岸では何度か脚が止まった。つなぎつなぎ走って本線大橋のヘリポート付近のエイドに辿り着き、そこで水分補給をしたのだけれど、橋を渡り切るまえに強烈な吐き気にみまわれて道端にもどしてしまった。
 残りあと3kmあたりが脚を前に出せなくなるほど辛かった。ほぼ力尽きていたといっていい。休息を入れるように歩いては走ってを繰り返しなんとか競技場に辿り着いた。当然強い安堵があったけれど青空に映えるフィニッシュゲートを目の前にしてもラストスパートすら出来なかった。フィニッシュタイムは3時間49分44秒(NET)。中盤のオーバーペースが後半に大きく影響した結果だ。以上が23走目のフルマラソンの結果だった。(了)

2023年12月13日水曜日

2023年 第37回那覇マラソン ハーフからフィニッシュ編

 「那覇マラソンはさぁ、所々で写メ撮ったりして楽しむマラソンだよ。」
 何度か走ったことのある御仁がそうアドバイスしてくれた。新潟住みのぼくには信じがたい師走の気候と絵に描いたような南国の風景。そして沿道の絶えることのない声援や奉仕。起伏の多いコース設計は記録を狙うそれではなくいが、記憶に刻印される印象の強いレースである。

 さて20km通過。待ちに待った下りだ。幅員のある、見た目にかなり長い下り坂が眼前に展開していた。ここに至るまでの疲労感は否めない。さりとてやり抜けない感じはない。後半に用意したとっておきの補給の封を開ける。下りを上手に利用して体力を繋ぐ。ペース遵守。調子に乗り飛ばすと終盤の失速が早く訪れるのは分かりきったことだ。

 平和記念公園の中間地点通過は手元で1時間55分ぐらいだったと思う。下りのスピードに乗りながら、元気の良い地元の高校生達とタッチした。彼らの盛り上がりが尋常ではなく、こちらが臆するほど眩しかった。彼らは「人間の鎖」として時間制限オーバーのランナーを止める役目も担っているらしい。

 ひめゆりは漢字で「姫百合」と書く。ひと昔、いやふた昔前の看板デザインを目にして気がついた。漢字の表記だと誰もが知っている戦時中の事象について重みが増すようだ。この那覇マラソンの最中に、ひめゆりの塔に献花するランナーの方もおられるそうだ。
 先人の犠牲に立つ平和への感謝。今日のウクライナ、ガザへの手向けだろうか。為政者は争いを用いて無辜の人々の生活や命を奪うことを躊躇わない。寒い時代だ。

 26km付近、下り基調は終わり緩やかな起伏のコースに転じる。わずかな上りでも疲労を覚えた。左右のひらめ筋が痛む。ビギナーの頃以来の痛みだった。狼狽える。その両脚の鈍い痛みは走る意欲を削っていくようだった。
 じわじわとペースは落ちた。30km通過は2時間40分ぐらいだった。残り12kmをキロ6分で刻んでもなんとか4時間は切れるなぁーなどと計算してしまう。
 そうして34kmの手前、遂に歩いてしまう。いやいや35kmまでは走ろう。なぜなら宮古島のランパートはその距離だから。己を鼓舞して再び脚を動かすが、すぐにブレーキがかかる。休憩が必要だった。ひと息入れる。そうこうしながら35km地点に到達する。そこまでは頑張ろうと思っていたせいか35kmの里程標で再び歩く。4時間内で完走するこにこだわりが消えうせていた。少し走って歩くを繰り返す。
 ・・・この辺りはどこでもみれるような商店が軒をつらねる印象が残っているのだが、沿道の盛り上がりは相変わらずだった。この辺りになる筋冷却スプレーを差し出す方々がとにかく目立った。

 37km通過。確かその辺りだったと思うが、沿道のサンピン茶の差し入れを頂いた。それはコーヒーを想起させるほろ苦さが口いっぱいに広がった。苦いのだけで不思議に清涼感となり、ぼくの背中を押すきっかけとなった。鞭を入る。あと5km頑張ろう。

 小緑(おろく)バイパスからモノレール駅のある赤嶺(あかみね)までの上り坂が長くて辛かった。似たペースの方に話しかけたり、沿道の声援のお陰でなんとか歩かずに凌ぐことができた。
 坂を上りきって右に折れるとモノレールとの並走する。見覚えのある道だった。なんとなく下り基調になることを予想していたが、そこに差し掛かってみると想像以上に下りの勾配があって時計を稼ぐことができた。あそこがなかったらグロスで4時間はきれなかったかもしれない。

 奥武山公園の交差点を左折すると、屹立するセルラースタジアムが目に飛び込んでくる。圧倒される。ゴールは近い。けれど鉛のように脚は重く、こちらのいうことを聞いてはくれない。先ほどの下りの反動か。
 スタジアムを右に折れ、公園内の小道に入ってからがとてつもなく長く感じた。見覚えのあるゼッケンを受け取った体育館の辺りを蛇行する。コースに沿って整列する地元高校生からは、あともう少し!の声援を山のように浴びた。で、あともう少しとはどれぐらい?なんて思いながら、必死に脚を進めると、遂に陸上競技場の入口とフィニッシュゲートがみえた。

 グロスタイムは3時間59分41秒。まじでギリ。ハードコースを理由に言い訳はいくらでもできるが、単に走力不足なだけだ。なんとか4時間内完走の体裁を整えることはできた。完走証を受け取りながら肩を落とすしかなかった。
 前半は概ね上り、後半は下りというコース設定ははじめてだったが、ぼくは嫌いではない。とても良い刺激となった。次回参加を胸に会場を後にした。

 すべてのメンバーが走り終えて集合地点に帰ってきた。そしてそのままチームメンバーのご自宅へ直行して大宴会が催された。準備していただいた奥様、お嬢様方、本当にありがとうございました。
 ぼくは沖縄の家庭料理に舌鼓を打ち、おいしいお酒を飲みながらその場を心から楽しんだ。思いがけず、普段よりも盃を重ねたけれど楽しいと酔わないらしく、フルマラソンにかけた以上の時間を過ごした。こうした繋がりも次回参加への意欲になろう。よい想い出となった初めての那覇マラソン参戦だった。(了)

2023年12月11日月曜日

2023年 第37回那覇マラソン スタートからハーフまで編

12/3(土)
 朝5:40に起床。TVをつけるとフィリピンでの地震による津波警報のニュース速報が流れていて物々しさを感じた。モニターに目を配りながら支度をせねばとポットで湯を沸かす。昨晩購入した白飯と地元のちょいクセのある味付けきんぴらをおかずに簡単に朝食を済ます。
 ホテルを発ったのは7:00過ぎ。ゆいレールに乗り奥武山(おうのやま)公園駅で降り、モノレールに沿って壺川駅までジョグ。指定された待ち合わせ場所は駅を出た目の前、川を渡った奥武山公園入口のトイレのすぐ横だった。
 朝食以降、どういうわけか気持ちが悪くなって何度かえずいた。原因は判りかねたが、時間が経てば良くなるだろうとなるべく気にしないようにして目的の場所へ向かう。

 集合場所には既に何人かがいて見知った顔をみつける。実に4年ぶりの再会だ。オンラインのやり取りはあったが面と向かうのは実はこれが2度目だ。
 多少の照れはあったけれどみるみる消えていった。地方から来たぼくに皆が無条件に優しく気を遣って接してくれるのでつい甘えてしまう。会話に夢中になっているうちに原因不明の気持ち悪さもどこかへ消えていった。

 整列の時間が近づいてきた。メンバーで円陣を組んで右手を出し、親指と小指を隣同士で絡め合わせながら「あんぜんだいいちー」とキャプテンの発声に合わせ「オー!」と応える。キュッと気持ちが引き締まる。それにしてもかけ声が安全第一とは。つい顔がほころんでしまう。

 スタート会場の奥武山公園の様相はまさに人だらけだった。見渡す限りジョガー&ジョガー。脚の踏み場がないぐらいジョガーだらけだ。参加者は2万人は下らないそうだ。

 近隣の国の参加者も散見される。コスチュームにプリントされた文字でおおよそ判別できた。中国、台湾に韓国・・・。かつてこの地に築かれた王国は独自の慣習と文化と共に、大陸から多大な影響を受けていたと語り継がれているが、海路を経由してそれらが伝播するのは難しいことではない。地政学上、互いに影響を及ぼし合える位置にあり人やものの往来がそもそも頻繁なことを伺わせた。


 スタート時の気温は21℃。風の吹く場所はとても清々しいが、雲の切れ間から熱を帯びた陽光に照らされるとじわじわと汗ばんでくる。万人参加の大会はさすがにジョガー密度が高い。薄雲に覆われた那覇の空の下、同じグループのHさんとKさんと整列をして号砲を待った。スタート直前まで冗談めいた面白おかしい話をしたのは初めてだった。緊張とは程遠いスタートとなった。
 号砲が鳴り、隊列が順序良く進行を始める。走り出しのストレスはほとんどなかった。われ先にと隊列を縫うようなジョガーも少なく、譲り合う光景の方が散見された。けれどもし時計にこだわるなら、もうひとつ前のグループが良いのかもしれない。

 那覇マラソンは沖縄本島の南部を周回するコースだった。記憶を繋ぎ合わせてふり返ってみたい。多かれ少なかれ実際と異なることはあるだろうがお許し願おう。
 スタートは那覇市内の中心部。起伏が多く激しいところもある。有名な繁華街、国際通りの左右の沿道には人だかりで溢れていた。地元のジョガーへの声援、いってらっしゃいの声、そして止まない拍手。沿道からの声援に圧倒されつつ、その熱に感心しながら、ぼくはチラチラと時計を覗きみてオーバーペースにならないように気を配る。
 市内地のコースではジョガーの群れの中で、なかなか身動きがとれず5km付近のエイド補給を取り損ねてしまう。得てして位置どりの問題だった。それとジョガー数の割にエイドが短かい。これから先もこんなだと水分補給がままならいぞと思った。しかし、それは全くの杞憂だった。
 最初のエイド付近を皮切りに、沿道からの差し入れが途切れることなく続くのだった。既知のそれではないほどに。水、スポドリ、氷、氷袋、みかん、飴、チョコ…。声援のあるところに必ずといっていいほど補給が差し出されている。私設エイドの数は日本一かもしれない。近所の世話焼きの方が、もう十分だというのにこれでもかと差し入れを届けてくる感じだ。これはこのマラソンの最大の特徴だとぼくは思う。

 7kmあたり。バイパスにつながる勾配のきつい上り坂が現れる。頂上を目で追うとフォームが乱れてしまうので、視線を下に落とし肘を上げる。上り坂が長く感じた。頂上左手に広がる那覇の住宅街のパノラマは登り終えたご褒美みたいだった。
 上りがあればその分の下りもある。ホッとしながら下っていくと大音量でYMCAの曲が流れ、前方の多くのジョガーがサビに合わせてYMCAの振りをやっている。
 ぼくは1度目はスルーした。が、2度目はついつられてしまった。すると右手沿道の台の上に立つマイクを持った男性が「みなさーん、ムダな労力、本当にありがとうございまーす!」とそれは嬉しそうに喋っている。
 なぁーんだ、そういうネタかと高をくくっていたが、少し間をおいて「でも、みなさーん朗報があります。あとたったの35kmです!」
 表情を崩さずにはいられなかったし、普通ならばズッコケるリアクションなのだが走っているのでさすがにそうはいかない。MCの彼は、これから続くジョガーの隊列にもYMCAをさせて、その決まり台詞を放っては笑わせねばならないのだ。そっちの方がよっぽどすごい。
 マラソンの後から聞いたのだが、各地に行われるマラソン大会のYMCA芸の元祖が当地らしい。捻りの効いた応援のひとつだ。それを受け入れる風土も粋だ。多くのジョガーが親近感を抱くの当然。それにしてもこの7km付近で、あと35kmとは考えたことがなかったので、確かにそれは長いナァと萎えてしまいそうだった。

 坂を上っては下るをひたすら繰り返した気がする。10km過ぎ、それから11~12kmあたりの上りもひどかった。視覚的にもヤバイく気のめいる風景だった。頂上到達地点でガーミンを覗いたがなんとキロ7分ペースまで落ちていた。
 残念なのは、まだまだ上りは続くのだ。その先の14kmあたりも長かった。頂上付近と思われる信号機になかなか辿り着けない印象だけが残っている。
 街中と比べれば沿道の人びとの密度は下がるけれど、ふと顔を上げれば何かしらの差し入れが視界に飛び込んでくる。ポッキンアイス、沖縄では「チューチュー」と呼ばれる氷菓が私設エイドのメニューとしてあらわれはじめた。それから企業名の入ったのぼり旗を掲げた架設テントのエイドが見られるようにもなった。とても大掛かりなものあった。もちろん公式のエイドだってちゃんとある。これらのおもてなし精神は特別な一部の方々によるものでなく、歴とした沖縄の文化なのだと確信した。ただただ感心するばかりだった。

 17km地点(具志頭交差点)は下りながら右折する。どういうわけだろう、ここの風景がなぜか脳裏に焼きついている。既視感のある南国の光景が広がった。背の高い緑豊かな自然のなかで、時間(とき)の香りの嗅ぐわう堅牢なコンクリートの建物がコントラストを描く。そして相変わらずの沿道からの声援は途切れない。高低表ではこのあたりから20km地点まで上り坂が続くのであった。
 そんな上りの途中、鉄腕アトムの主題歌を演奏するバンドがいる。ここに至るまでにも多くの演奏者がいたが、このアトムの楽曲が耳から離れない。チラ見すると演奏のみなさんは恐らくシニア以上で、ぼくよりも齢の上の方々のようだった。戦後20数年間、本土とは異なる時間を過ごしてきた沖縄。鉄腕アトムで繋がる世代なのだ。
 ようやく20km、上り坂が終わる。左には糸満の美ら海がパノラマで展開する素晴らしい眺めだった。そしてそこは今回のマラソン攻略の中でひと区切りとなる重要な場所であった。(続く)

2023年12月7日木曜日

2023年 第37回那覇マラソン 前日編

 12/2(土)
 朝の気温は3℃。朝刊に昨日市内で初降雪を観測した記事が載っていた。夏の破壊的猛暑の記憶と最近までの気温を思うと、急に寒くなった気がしてならないが、遠くの山々では雪化粧がはじまっていてこのままいけば本格的な里雪も近いだろう。
 この日ぼくは那覇マラソンを走るために沖縄へ向かう。
 師走のレースに出走するというのは初めてでコロナ禍以降初の遠征だ。これを皮切りに再び外へ飛び出していく機会が増えるのではと思う。そして沖縄にはもうひとつ目的があった。宮古島トライアスロンで知り合った沖縄のチーム「TECHI テチ」の面々と合流して酒を酌み交わすのだ。もしかするとマラソンは口実で彼らに会いにいくのが本当の目的なのかもしれない。
 「人生を楽しむのならば旅をしなさい」
 人生の先達は口を揃えたようにそう話す。国内外問わず、知らない土地を訪問する旅行生活を送ってみたい。それは多くの人びとの定番の夢のひとつかもしれない。
 ぼくはスポーツイベントを足がかりに旅をしているようなものだ。そこに集う人々、その地に住まう人に声を掛け自身の生活圏以外の人々の営みのようなものを感じている。いくらかの無理はやむを得ない。自身のやりたいことはどしどしやっていくべきだろう。つたない直感を信じて勇気を持って臨んでいる。ぼくにとってのスポーツ遠征は人生を最大限に楽しむための方法であり手段なのだ。

 お昼に新潟から出発して大阪伊丹空港で乗り継ぎ那覇に到着したのは17時過ぎ。そこから「ゆいレール」でひと駅目の赤嶺(あかみね)のホテルにチェックインする。手荷物を置いて再びゆいレールで壼川駅へ向かい、受付会場の奥武山公園でマラソン参加のためのゼッケンを受け取った。18時を少し過ぎたぐらいだった。空港、宿泊にマラソンスタートの会場、それぞれが目と鼻の先ほどの近さだった。観光マラソンの草分け流石の設計だと思った。
 会場が宿泊からとても近いことが分かったので、夕食や買い出しの散策を兼ねて徒歩で移動する。テチのKさんから教えてもらった、そばのお店の暖簾をくぐり、近所のスーパーマーケットで翌朝の食の買い出しを済ませホテルに戻る。すべてがほぼ想定通りで余裕を持って行動することができた。23時には消灯。ちょっと寝付きが心配だったので久々に薬を飲んで眠りについた。(続く)

2023年10月13日金曜日

第39回新潟シティマラソンのこと

 ラグビーワールドカップ、仏ナントで行われる日本 vs アルゼンチン戦を眺めながら、この日のマラソンの忘備録を書こうとしている。
 ジェイミー ジョセフ率いるラガーマンらが目指す高みには逆立ちしたって及ばない。ぼくは毎年恒例の催事、自分以外の何者からも特別な期待をされていないので、なにか圧を背負っているとするならば、せいぜいベテランとして他人様の迷惑にはならないようにと思うぐらいだ。
 しかしながら、彼らとぼくとでは職業選手としての立ち位置と趣味の領域という決定的な違いはあるものの、自身の全身全霊を用いて、悔いを残さぬようにする点は同じだ。
 今年は4時間以内(ペースはキロ5分30秒)で完走、次走に繋がるレースならば御の字。言い訳に聞こえるだろうが佐渡トライ以降、思い通りに調整が進まないことがあって、ほどほどのところで折り合いをつけて臨んむことにした。

 秋の陽射しは手放しでは歓迎できなかったけれど、この夏に比べればどうってことはなかった。スタートのビッグスワンから信濃川左岸、そして萬代橋や古町の折り返しまで、ぼくは大勢のランナーに囲まれながら殊更にペースが上がらないように慎重に走った。
 10kmの通過は54分。計画より1分のアドバンテージ。昨年、このあたりからどうペースを刻むか考えた。まだ序盤、調子の良し悪しの判断はしづらい。
 念のため封を開けた補給材を持った。これで3つ目。スタート整列の直前、空腹感を抑える為にひとつ、10km手前でひとつ補給をした。実際エネルギーの補給というより、専ら脳を騙すためのもので、ぼくの中で1番利己的なヤツ(脳)に気分良くしてもらうのが狙いだ。チビチビと少量を口に含みながら進んだ。

 港トンネル。今や新潟シティマラソンの名物地点のひとつではなかろうか。沿道の声援は少なくない。15kmのエイドでタレントの杉ちゃんを見つけてびっくりしたのと同時に、そういうことに全く関心を持たずに臨んでいた自分に気がついた。走ることばかりに気がとられているのか。
 海からの風だろうか、涼風を感じながら復路のトンネルに潜らんとしていたところ、不意にぼくの名を呼ぶ声を耳にする。反対車線のランナーの群れからだ。すぐにどなたか理解できたので振り返りはしなかった。次は、ぼくから先に声を送ろうと思った。

 20km通過は1時間46分。アドバンテージが広がる。ペースはキロ5分20秒に少しお釣りがくるぐらい。レース特有の興奮状態がこれをさせた。控えめにみても今季の練習ではこれほどの時計で走ってはいない。オーバーペースだろう。きっと終盤この対価を支払わされるのだ。

 旧双葉中学校前の信号は、港トンネルの出口から緩やかに続く上りの終わりを告げる目印だ。信号手前の急勾配を駆け上がるとしばらくは概ね平坦で走りやすくなる。

 坂を上がると左手に波消しブロックで仕切られた海岸が映る。この夏一度だけOWS練習として泳いだ場所だ。このとき、海面は雲や光の加減だろうか、目を疑うような青白さが幻想的で、その絵もいわれぬ海の紺碧が脳裏に焼き付いた。

 ピッチを刻むと滑らかにペースが上がった。どこまで継続できるかはわからない。キロ5分近いスピードは周囲を走るランナーとは少しだけ異なり、前へ押し出された。


 西海岸公園、通称タコ公園の25kmを通過。関屋分水から火葬場のあたりは折れ曲がりや起伏があって、ぼくの気を削ごうとする難所のひとつだ。そこを越えると防砂林に囲まれた見通しの良い直線道に出て、道路の中央を隔て、折り返してくるランナーと互いに励まし合える場所だ。行き交う顔見知りに合図を送り、トンネルで声を掛けてもらった方々とはすれ違い様にタッチを交わした。

 30km通過は2時間38分。直近で30km走をやっていなかったので、ここまで辿り着いたことへの感慨があった。コース形状もあってペースはやや落ちていが状態は悪くはない。補給をちびちび口にしながら信濃川の土手をトレースする。しばらくはお世辞にも走りやすいとはいえない道だ。その代わりと言ってはなんだが、沿道の応援が多いところのひとつでもある。
 昨年の斜め向かいからの風を想い出した。それに比べれば今回は楽だった。徐々に疲労に苛まれ、例の対価を支払わされることを思へば、少しでも楽な方がいいに決まっている。

 35km地点の土手を降りたあたりから怪しくなってきた。どこかが痛いわけではない。ただ止まりたい、歩きたいと願うようになっていた。
 いやいやどこも悪くない。四頭筋は全然大丈夫。
 消極的思考と身体を引き離しに掛かる作業は必須だ。しかし、残念ならがペースは下がっていく。
 37km付近、平成大橋の歩道が脚に応える。そこから本線大橋までのあいだ、何度も歩が止まりそうになる。しかしそれに相反して、いかに走り続けられるかが自己満足感や肯定感を高めてくれる。このフルマラソンのオプションに向き合いながら、走る動作をやめないことこそがマラソンの醍醐味だとぼくは思う。こういうときは、これまでの様々なレースの記憶を手繰り寄せ、もっと辛かったと思い出したり、いずれ到達するゴールの達成感などで自尊心を刺激する。肉体的な故障が伴わなければなんとでもなる。
 里程標はゴールまでのカウントダウンだ。確実に陸上競技場へ近づいていく。ペースはガタ落ちだが絶対に止まってはいけない。
 スタートのビッグスワンから市陸のフィニッシュに辿り着くまでに要した3時間46分57秒。21度目のフルマラソンが終了した。(了)