2026年4月27日月曜日
気持ち新たに 2026.4.20~4.26
2026年4月23日木曜日
2026.4 宮古島滞在記②(4/18)
4/18(土) ひとり、大神島へ
朝の涼やかな空気の中、宿泊から徒歩数分のパイナガマビーチを副キャプテンと散歩する。宮古の海はどこを切り取っても透明に近い青色をしている。
歩きながら怪我の修復と痛みのメカニズムについての講義が始まり、腑に落ちるところが多く参考になった。痛みという信号とそれへの対応を改める必要性を感じながら、今後のトレーニングを構築するヒントにしたいと思う。
今度の怪我の対応のまずさは、痛みを我慢して早期に身体を動かしたことが1番の原因だっと反省する。同じ轍を踏まぬようにしたい。
さて、この日はご承知のようにレースに参加する選手はバイク預託やスイム会場の下見などがあるが、どうにも心が落ち着かなくなるから逃げることにして、大神(おおがみ)島を訪問することにした。池間島へ向かう途中、島尻の港からフェリーで渡る離島だ。朝食のあと宮古島出身のMちゃんに車で送ってもらい、港で降ろしてもらう。
![]() |
島尻は宮古島の奇祭と呼ばれる「パートゥン」で有名な村だ。国営放送のぶらなんとかという番組で、宮古島を紹介する放送を観たが、まさにここがその撮影地だった。時間があるので村を散策して時間を潰す。人や車とすれ違うことはなく、牛舎の牛とハイビスカスがぼくの心を癒す。陽光に照らされて汗が止まらない。持ったタオルを手放せなかった。
島尻漁港の真ん中にフェリーが接岸する天蓋のある乗り場、その入り口に佇むプレハブのフェリー搭乗券販売所がある。フェリーは1日往復4便。販売所に掲示された時刻表を確かめるとまだ時間は十分にあったので港を散策する。
人の姿は見当たらなかった。海から吹く風、整備された護岸壁にぶつかる波の音。時折、鋭い鳥の鳴き声がきこえる。眼前には大神島。海と空に切り取られた島は浮かんで見えるぐらい、稜線がはっきりしていた。
![]() |
| 島尻湊からみる大神島 |
海上の珊瑚礁の切れ目では激しい波を打っている。太平洋で発達した台風の影響だ。大気は、海は一体で繋がっている。遥か遠くの小笠原あたりの力がここに伝播しているのだ。
防波堤から眼下を見下ろし海面をじっと見つめていると、潮の流れが止まり、突然流れ出す様子が伺える。海面のさざ波の向きと潮の流れてが異なっていることにも気がついた。
伊是名島でのOWS(オープンウォータースイミング)の経験から、この海で泳ぐのは容易でないと想像がついた。
大神島と島尻港の間、小波立つコバルト色の海上には柱のような突起物が規則正しく何本も立って島まで延びていた。若いイケメンのフェリー操舵士の方から伺ったところによると運行の目印だそうだ。名称は忘れてしまった。珊瑚の海底を掘って通り道があって、柱をみて右側を航行する。
干潮時には姿を隠した珊瑚礁が隆起するように海面から顔を出す。浅瀬に乗り上げないように操舵するのにはコツが必要だとおっしゃっていた。30人乗りの小型フェリーを操るのは容易ではない。干潮と満潮、風と波を掴んで変化する海を予測する。豊富な知識と経験が必須なのだ。
片道15分で大神の港に到着する。途中、波が荒くなって何かに掴まっていなければ立っていられないほど激しく上下する場所があったり、なかなか興奮した。やはりただの美しい珊瑚の海ではなく、例外なく容赦のない自然が横たわっているのだ。
船着場から上陸すると、体高30cm胴長50cmほどのみるからに年老いた犬が船に向かってワンワンと吠えている。このときの乗客は6名。皆が老犬を横目に皆が通りすぎたあと、ぼくはしゃがんで犬の鼻先に手の甲を向けじっとする。老犬はクンクンと匂いを嗅ぎ、ぼくの左右を行ったりきたりする。胴を優しくさすると、さらさらとした毛が柔らかくてさわり心地が良かった。傍らにいた島民と思われるお婆さんが、名前はユリ15歳、と教えてくれた。なんでも飼い主がここ2週間ほど宮古島へ出かけ(入院?)ていて、船が着くたびに主人が帰ってきたか見にきているそうだ。ユリの容姿が哀愁を帯びているせいで、物言えぬ彼女の吠えが切なく聞こえてくる。
尚、なんと偶然にも、ぼくの帰路のフェリーでご主人が戻ってきて、ワンワンと吠え続けるユリをみることができた。飼い主のお爺さんはなんてことない表情で餌をあげていたのが印象に残った。
大神島は島そのものが神聖な場所とされている。口承、口伝で語り継がれているようだ。 絶え間ない波の音、草木にそよぐ風。時折、土鳩の鳴き声が混じる。今は花の季節で路傍には白い百合の花がここそこに咲いている。草むらには無数の黒い蝶がハラハラと舞いあがり、またすぐにゆっくりと舞い降りるを繰り返していた。
時間が止まったような、あの世とこの世の境界とでも言うか、これまで味わったことのない雰囲気を感じる。神社仏閣の荘厳などではなく、もっとずっと原始的で無垢な神々しさだ。
さっそく遠見台に脚を向ける。多くは無人なのだろうか、コンクリート平屋作り民家が傾斜面に張りつき、その間を縫うように歩行者がすれ違える程度の坂道が続いていた。
手作り感しかない看板に従って進むと、そう古くはない木造の階段が現れる。急な段差の階段を登っていくと、二間ほどの木柵で仕切られた遠見台にたどり着く。
![]() |
| 遠見台からの池間島 |
帰りの船までの時間はたっぷりある。時間を掛けて島の外周を散策した。
路傍に咲く白い百合の花、はらはら舞っては着地を繰りかえす黒い蝶々たち。ちょうど干潮時を迎えたので浜に降り、海辺てサンゴの残骸や貝殻を拾ったりした。真っ青な小魚、巻貝を背負ったヤドカリを見る。海岸に沿って敷設された道沿いには、毒々しいムラサキ色をしたヤシガニがアダンと呼ばれるパイナップルに似た形状の実を食べていたり、砂地には赤い花びらのようなカニなどをみることもできた。ただ残念だったのはあたりに放置された廃棄物や、海岸に漂着する数々のゴミ。島に住む人々だけでは、もうどうにもならない量なのだろう。
![]() |
| 奇石ノッチ |
滞在時間は3時間半。なにもないことに価値を見出す島だった。ぼくは14時のフェリーで塩尻に戻る。ちょうどよく接続するバスに乗って平良港へ戻る。(まだつづく)
2026.4 宮古島滞在記(4/16,17)
4/16(木) 宮古島へ
正午過ぎ、新潟空港から伊丹に向け飛行機が離陸する。この時間に短い昼寝をする習慣があって、このときもいつものように眠気に誘われるままに眼を閉じた。そして薄ぼんやりした意識のもと尾てい骨の鈍い痛みを感じ眼をひらく。すでに大阪上空に到達。着陸態勢に入る直前だった。
ぼくは飛行機に自前の円座を持ち込んで座席に座っている。座高が微妙に高くなって違和感は座り心地は悪くない。長時間座るには円座が必須だった。もちろん痛めてしまった患部の保護のためで、今回の宮古島をDNSするぼくの判断がいかにやむを得ない事情なのかを表すアイテムでもあった。
今回、先輩アスリートのKさんと共に宮古島を目指す。同行は初めて。ちょっと不思議な感じがするが、こうなる縁があったのだろう。
伊丹空港内の移動の最中、お尻のあたりになにか詰め物をされたような感覚になって気になって仕方がなかった。テーピングで患部を固定しているが油断はならないようだ。
空港で那覇行きの便を待ちながら大会についてのあれこれ話していた時のことだった。那覇へ向かう機材に整備不良が見つかり代替え機を準備するので、伊丹出発は18時過ぎ那覇空港到着は20時を過ぎる。そうなると那覇からの各離島への乗り継ぎはできないという旨のアナウンスがあった。つまり本日中に宮古島に着けなくなったのだ。
ぼくらは顔を見合わせる。離発着の時刻が遅れることはあるが、ここまで計画変更を求められたのは初めてだった。予期せぬ事態とは額面通り予測不能なのだ。
搭乗口で館内の食事代として1、000円分のチケットを受け取り、乗り換えの変更手続きのために航空会社の窓口へ向かう。乗り継ぎを待つ間に搭乗口を出るのは初めてでドキドキしたが、お陰で伊丹空港の様子を眺めることができた。
似たような状況の乗客の列に連なりながら、宮古島で合流予定の副キャプテン殿に状況を報告してレンタカーや宿のキャンセルをお願いして、もしも那覇で宿が取れないときはご自宅に泊めてくださいとお願いをする。当然とも言わんばかりに快諾をいただき、ひとまず宿を担保。つづき実際の宿泊の確保に取り掛かる。那覇滞在時には確実に利用する赤嶺のホテルに連絡をしたところ部屋を用意していただでけることとなった。荷物が少なくはないので空港から近い場所はなにかと助かる。
航空会社の窓口で翌朝の宮古島行きの席を確保。変更の追加料金はなく、また嬉しいことに宿泊費用も上限はあるが補償されることがわかり安心する。おなかもへったので遅い昼食をとり、那覇行きの便を待った。
伊丹から那覇へ向かう機内で機内サービスのコーヒーを頂いた。レース前ならば絶対に口にしない。黒い液体が舌を、喉を通るのが感慨深く、ささやかながらに幸せを感じてしまう。小窓に黄昏の空が映る。闇のとばりと陽の残光が溶け合い境界線ができていた。右の席では外国の男性がポテチを貪り、すっかり袋を空にしてパンパンと手の塩を解いている。それ横目に、残ったコーヒーを口に流し込んむ。今回の旅はいつもとは相当に異なっている。本来ならばレースを兼ねた遠征なのだが、その主たる目的を喪失してしまっていた。なので、いつも以上に感じたことを言葉に落とそうと思った。
4/17(金) 宮古島入り、準備開始
赤嶺から始発のゆいレール(モノレール)で那覇空港へ向かい、搭乗手続きを行う。同じような乗客が多いのだろうか、予想以上に時間は掛かったけれど無事に宮古島へ向かう飛行機に乗ることができた。
宮古島空港の建物から外にでると、強い陽射しと高い湿度に怯んでしまいそうになった。まだ午前8時半だというのに!新潟とはまるで違う気候を皮膚に感じながら、副キャプテンが手配してくれたレンタカーに荷物を積み込んだ。経年からくる使用感が滲む車だった。ハンドルに慣れて置く必要もあったので宿へ向かう前に伊良部大橋へ向かう。宮古ブルーと呼ばれる青く透明な海にかかる伊良部大橋を自分の運転で進むのは初めてで気分はあがる。
ぼくは選手のピックアップのため宮古島空港へ向かう。予定の到着時刻から40分ぐらい遅れて副キャプテン殿にMちゃん、同じくM君の3名。伊是名トライ以来、5ヶ月ぶりの再会にグータッチ。気の置けない仲間たちだ。
この待ち時間の間、空港のみやげもの屋さんを物色する。これまであまりしたことのない散策に心が躍った。数あるおみやげの中でコミカルに描かれたパートゥンのTシャツがフックして思わず購入。さっそく自分のお土産ができた。小腹も少し減ったのでポークたまごおにぎりを頬張る。ささやかな観光気分だ。
空港の目と鼻の先にある宮古ドームへ移動して選手登録を行った。大会運営にDNSの旨を伝えると、事務局の方とメールでやりとりして欲しいと言われ、届けは受理される。あっけなく物事は進んだ。これで一応の区切切りついたのだけれど、まったく心は晴れない。自分にしかできない判断は自分で責任を負うしかない大会に出ようが出まいがそれは同じだ。しかし、現地を訪れてまでの判断はこれまで経験がないので、これ以降、どういう身の置き方をすればよいのか判らなかった。どうすれば判断の責任とやらが取れるのかがよくわからない。この場合の責任の取り方とは一体なんなのだろう?滞在期間で見つけられると良いが、この時点では全くもって判らないでいた。
昼食、宿のチェックイン、荷物整理、談笑。時間の経過はあっという間で、このたび宿が一緒のはじめましてのHさん、そしてまだ選手登録を済ませていないKさんと共に競技説明会の会場へ向かう。
物販ブースを散策していると、今回、絶対に会いたかったご婦人に会うことができた。実のところ、会うのはこのタイミングしかないと思っていた。
ぼくはすぐさま駆け寄り、手を握り、お会いしたかった、元気になって本当によかったと伝えた。すると、彼女はご自身の近況を手短に話した後、前置きもなく、あなたが今回こうなったことには何かの意味がある。今は辛いかもだが生きているんだからなんとでもなる、と仰った。
生きているんだからどうにでもできる、なんて科白はそうでるものじゃない。今の彼女だからこそ吐ける台詞だ。頬にピシャリと平手打ち、冷水を浴びせられたみたいにハッとなった。そしてほんの一瞬だけ涙腺が緩んだせいで鼻がグズる。そのまま話していると気持ちが落ち着かなくなりそうなので、咄嗟に周囲の方に言葉を向けた。
今回の忘れられないひと幕である。
参加する選手すべてが眩しくて、自信に満ち溢れる選手が妬ましく思えた。パーティに脚を運んだこと、そもそも宮古島に来てしまったことを悔やんだ。またそう思うほどに惨めさが増し、幾重に積み重なった己の卑しさに辟易する。そういう思いがどこから来て、どう消化されねばならないかを考えた。
楽しみは喜びと豊かさを、苦しみは生をより実感する。今この心理状況に蓋を閉まってはダメな気がした。(つづく)





