2022年10月10日月曜日

2022年第38回新潟シティマラソン、ぼくにとっての4年ぶりのフルのこと

  「ねぇ出走受付はam7:30までだってさ」
 ぼくはベッドで夢うつつだった。そもそも7時過ぎに家を出てスタートまでに間に合えばいいと考え、時間を持て余してウトウトしていた。
 「え、何それ?今何時?」「6時29分」「!!」
 あわてて身支度を整える。案内をしっかり読んでいないとこうなる。奥さんのファインプレーに救われる。
 そんな朝の始まりだったけれど、マラソンスタートの定刻、am8:30前に仲間達と共にスタート位置に立っていた。昨年秋、群馬マラソンを足底腱膜炎を理由にスキップし、実に4年ぶりとなるフルマラソン出走だ。4年って、オリンピックじゃあるまいし。

 号砲が鳴る。スタートの静謐。ザッザッとアスファルトを踏む無数のシューズがそれぞれに規則正しくリズム打つ。そこに時折、沿道からの声援が入り混じる。
 体調に合わせて歩を進めるつもりだった。急ぐ必要はない。キロ5分ペースでいくような強迫観念のような縛りはない。むしろ前が開かないぐらいが丁度よかった。気の置けないランニング仲間を前に置いて、彼らの背中を見ながら進む。
 それでも目標より時計は速い。都度、歩様を落とした。妙に身体が軽く感じるのがその原因のようだった。脳内で放射される物質の効き目か。キロ毎のラップは目標より10秒以上速かった。練習走のハーフは5分20秒、30kで5分30秒を刻んだ。佐渡トライアスロンが終わってからの急仕上げだがセオリー通りの対策はやった。目標はサブ4 、5分30秒ペースが目標だ。ペースを遵守することが目標達成の道筋と考えているので、序盤から飛ばす訳にはいかない。

 信濃川沿いから街の中心へと向かう。万代橋から古町へ。このとき、新潟2キロと銘打ったユニバーサルランに参加する人々の中に、下半身が麻痺しているのだろうか、左右の松葉杖で古町側から万代橋を上ってくるランナーを目撃して、思わず「すげ〜」と声に出してしまう。その後はずっとユニバランナーに視線は釘付けだった。彼らの勇気に圧倒され、心の中で惜しみない拍手を送る。ユニバーサルランの意味を少しだけ判った気になった。

 そうこうしているうちに10km通過。予定より1分半のアドバンテージ。10k地点ではマーチングバンドがドラゴンクエストのopeningを演奏している。そう僕らの冒険はようやく始まったばかり。持ちうる装備を身にまとい、最初の難所の地下ダンジョンよろしく港トンネルへ向かうのであった。

 そのダンジョン手前の12kmあたり、少し早いが所持している補給を口にする。カフェイン入りのコーヒー味。味や食感は好みではないが、カフェイン入りという点が気に入って今回初めて採用した。なんたって3日間もコーヒー断ちしたのだからカフェインの覚醒作用の恩恵があるかもしれない。余談だが、以前は別なカフェイン入り製品を愛用していたのだが、ある日を境にみかけなくなった。どうしてだろう。

 港トンネル。その名の通り新潟港の東西?をつなぐ海底トンネルだ。トンネル入り口で13kmの里程標を確認。トンネルを往復すると6キロほどの道のりになる。
 下りは歩幅を小さめにして四頭筋への衝撃をセーブ。サングラスは掛けっぱなしなのでトンネルで時計は無視。しばし平坦になり、次は上り。上りはさほど苦ではないのでペースを落とすことなく進めた。トンネルを抜けてしばらく進むと折り返し。再びトンネルに向かって下る。そしてトンネルをくぐると海岸沿いの道に出るのだ。この港トンネルは、ぼくの周辺には大不評だ。ぼくとしては普段トンネルを駆ける機会はそうはないし、薄暗くて気温が低いのは嫌いではないのだけれど。

 トンネルを抜けた19km目前、2つ目の補給を入れる。これも予定より少し早い。こいつはぼくにとっては絶対的な補給剤だ。2019年の宮古島トライアスロンから愛飲して手放せなくなっている。
 ここでフト考えがよぎる。相変わらずペースは予定よりも10数秒速い。練習走でもやっていないペースで、まもなくハーフ地点を迎えようとしているのだ。
 2018年の同レース、実はこの辺から苦しくなり、しばらく先でペースが落ちてしまった。でも今回はどうだろう。予定よりもペースは速いが全然辛くない。もう少し上げてもいいんじゃないのか?潰れたらそれはそれ、Goを掛けるのは今じゃないのか…。
 そこからは時計をみないことにして、調子と相談して進むことにした。「慎重に」という2文字を取っ払った。けれど無茶は禁物。出来うる範囲でここから20km先にあるゴールまで刻めるペースが条件なのだ。

 25km手間、通称タコ公園の前で応援するラン友とハイタッチ。力を貰う。そこを左に折れ関屋分水という川と海の水門の橋に向かうのだが、その僅かな距離で強烈な向かい風を受け、30km以降はこの風を受けて走ることになるのだと脳裏をよぎる。

 関屋分水を渡り、青山火葬場へ続く上りを駆け、海岸の防砂林に沿った2kちょっとの直線を進んで折り返しいま来た道を戻る。その道すがら、スタート時に一緒だった面々とすれ違い、声を掛け合った。皆一様に表情に疲労がうかがえる。それはきっとぼくも同じだったであろう。中盤以降のランナーの表情というのはそういうことになるのだ。

 30km通過は2時間38分、予定より7分のアドバンテージがあった。
 ほどよく整備された信濃川の土手の道を、向い風に煽られながら進む。ふと顔を上げるとランナーの隊列が連なり、先の先まで続いていた。この辺り、脚の止まったランナーが顕著になる。あちこち見とれそうになったが、顎をひき視線をアスファルトに落とす。走ること、脚を前に出すことに注力する。斜め前方から吹く風に怯んではならない。されど喧嘩するのも良くない。
 里程表を持って立つボランティアと思われる若者達が、それはそれは大きな声でぼくらに声援を送っていた。ぼくはすれ違いざまに右手を上げて「ありがとう」とお礼を述べる。
 その先の道路高架下、ゲストの高橋尚子さんが通り過ぎるランナーひとりひとりに声援を送っていた。そういえば、ぼくが折り返しから再びそこに戻ってきたとき、彼女は体調を崩したランナーを介抱していた。周囲にスタッフらしき方々がいらっしゃらなかったが、大丈夫だったのかな。高橋さんよりずっと背の高い男性ランナーの背中に手を当てた彼女が記憶に残った。

 残り7km、35km地点で風と闘う苦行は終了した。土手を降りて側道を走る。概ねフォローの風となり身体を押してくれる。途中、豊栄走友会の快速ランナーFさんの私設エイドを発見。思わず飲み物に手を伸ばしつつご挨拶して、彼の施しに力を貰った。彼は佐渡のAタイプに出ていたのでこの大会は見送ったのだろう。そんなことをつらつら考えながら、ぼくの佐渡の苦い記憶が蘇った。ここは、ここだけはどうしても止まるわけにはいかない、そう強く想った。

 土手沿いの道から向こう岸を目指し橋を渡る。橋の歩道の途中「残り5km」の赤字に白抜きの里程標が現れた。残り5k、こちらの余裕はもうなくなりそうだ。すでに脚取りが覚束なくなっている。四頭筋が重く、脚を前に出すのがしんどい。腰が落ちていると思い、下っ腹を前にだす。ここからは精神力が試される。辛く楽しいフルマラソン最大のオプションにぼくは突入した。

 信濃川右岸の土手の沿道には人が多く連なり、ぼくらに声援を送っていた。歩いているランナーは少なくなかった。あと少しもう少し。自らを慰める言葉は陳腐化し、信憑性は失われる。ただ寡黙に、ひたすら脚を前に出す作業を止めない。それだけだ。追い越すこともあれば、追い越されることもあった。里程標がカウントダウンするたびに、あと少し、もう少しが息を吹き返し蘇る。ただ黙々と脚をだす。絶対に止まらない、歩かない。意地しかない。

 新潟市陸上競技場の門から見たフィニッシュゲートは青い空に映え、とてつもなく大きくみえる。その姿は、まるでパリの凱旋門のように聳え立っているようでもあった。ぼくはコース中央に位置を取って、残った脚の力を絞り切るように駆けた。4年ぶりのフルマラソンのフィニッシュ。そして今年初めてのゴール。
 門を潜り脚を止める。回れ右しながらサングラスを外してゲートに、コースに深く頭を下げた。20走目のとなる3時間43分の長くて短い冒険の幕が下りる。(了)

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