2017年8月2日水曜日

富士登山のこと 登頂編 ’17.7.29,30

「富士山」について今更説明する必要はない。誰しも漠然といつかは…と思っていても、本当に富士の山頂を目指すには、それなりのきっかけや動機が必要で、自分が本当に登るなんて思ってもみなかった。
 2年前、ひょんなことから富士登山の計画が持ち上がったが、計画の半ばで頓挫してしまった。その頃から富士を意識するようになり、昨年、家族でドライブのついでになんとなくその周辺に脚を延ばしてみたが、おぼろげなその頂きを垣間見る程度に終わってしまい、脳裏に描かれる雄姿と重ね合わせることは叶わなかった。
 そして今回再び計画が立ち上がり、それは昨年末辺りのことだったと思うが、当然のように僕は参加メンバーの1人となり、このたびの実現となった。
 富士山に登るのは自分の意思に関わらず、運命的にセッティングされていたような気がしないでもない。しかし最近読んだ小説のセリフのごとく、それは運命でも偶然でもなく、全て自分が選択してきたことの積み重ねによる結果らしい。ようやく機会が訪れたということなのだ。


吉田口ルート詳細

 7/29(土)有志13名による富士御来光参拝を目的とした2日間の日程が幕を開ける。クリアにならない天候に少々の苛立ちを抱きながら富士スバルラインを目指し、早朝の新潟を出発する。
マイクロバスをチャーター
 所々渋滞に巻き込まれながらも、ほぼ予定通り我々を乗せたマイクロバスは目的地に到着。残念なことは富士山の2,305mに位置する吉田パーキングは土砂降りの雨。僕らは高地順応を兼ねて出立時刻までゆっくりと時間を掛けて準備を整える。

 ちょっと階段を登っただけで息が切れ目眩がすることに面喰らう。順化の重要性を早速認識すると同時に不安に駆られる。それに恨めしいのは、さらに勢いを増す雨。僕の装備は少し年代物で、水が浸透するのにそう時間は掛からない。天を仰いで空を呪うしかなかった。


雨の吉田PA



先達2人から注意事項説明

 参加メンバーはみな登山の素人なので念を入れ先達を2人お願いした。この判断は後に評価されるのであるが、まだこのときは先達を2人もつけるとは、なんと贅沢なんだろうと思われていたに違いない。
 15時過ぎ、この道40年超の先達、渡辺氏に率いられ、今夜の宿泊先である7合目の「東洋館」を目指す。僕は隊列のしんがりで、僕の後ろにはもう1人の先達、若手の渡辺氏がついている。
 僕らはベテラン氏に先導され、ゆっくりとした足取りで登山道を進みだした。


5合目からの登り



 吉田パーキングから富士の登り口までしばらく下り坂が続く。それはウォーミングアップと環境順化を兼ねているそうだ。先達のヤング渡辺氏は、僕らにここで亡くなった登山者についてのエピソードを披露する。富士登山、特にこの吉田ルートはシーズン登山者の6割以上を受け入れるのだが、登頂を目指すすべての人々の生命を保障しているのではないことを端的に伝えようとしているようだった。彼は今後、要所要所でグロくおぞましい話をする役目を担うのである。

 ガスのために全く周囲の景色がわからないのがこの上なく残念だった。視覚情報が閉ざされた僕は、ヤング氏と他愛のない会話を交わしながら道を進んだ。そんな中、同じようなペースで進む韓国から来た李さんという女性と知り合い、1人ならばとパーティーに誘い、我々の隊列に加わって頂く。

 僕らはジリジリと歩を進める。歩き出して1時間ほどで雨は小降りになった。相変わらず周囲はガスに覆われ景色は全く伺えず、まるで雲の中を歩くようだった。運動量としても物足りないが、まぁ仕方がない。

 17時過ぎに7合目に入った。最初の山小屋で李さんとお別れをする。少し進んでからふと後ろを振り返ると、彼女がまだ僕らを見送ってくれていたのが印象的だった。外国から1人で富士を訪れるその行動力に感服するばかりだ。


7合目、最初の山小屋にて

 我々の目指す東洋館は7合目の最上位に位置していた。足元の岩場を踏みしめながら、ひとつまたひとつと山小屋を通過し、19時前に東洋館に到着。
 あたりはもうほとんど暗闇に覆われていた。館内に導かれると濡れた装備の始末を促されつつ寝床に案内される。寝床はちょうどヒト1人が横たわるスペースに寝袋が敷いており、我々にスペースをあてがうのがスタッフの作業の一つだった。
 広間に用意された夕食のハンバーグをそこそこかっ込み、みなで寝床に横一列に整列して横になる。22時起床を言い渡されて僕らは眠る努力をした。僕は眠剤を一錠飲み込んで眠りにつこうと瞼を閉じた。すると突然建物を激しく叩く雨音がして、それは徐々に増していった。激しい雨音にまんじりとせず、僕らは容赦ない天候の仕打ちに暗澹とせざるを得なかった。

東洋館のハンバーグディナー。ご飯おかわりアリ。

22時起床。山頂へ向け荷造り

 不意に意識を取り戻すと起床時刻の3分前。ちょっと寝ぼけながら僕は支度を始める。それに続けとばかり周囲も動き始めた。半分以上のメンバーがまんじりともせず過ごしていたそうだ。僕がしきりに眠剤を進めていたことに、あの時に貰っておけば良かったと後悔する者もいた。いつだってそんなちょっとしたことが、これから先に起こることへの備えになるものだ。富士山だろうと日常だろうとその本質は変わらない。

 雨の気配はなかった。すぐに宿のスタッフが広間へ荷物をもって集まるようにと、命令めいた指示があり、僕らは素直に従う。広間には我らの先達渡辺両氏がおり、気温は高いので薄着で良いことと、これからの登山道での渋滞は避けられないことを端的に伝えた。

 22時半、8合目に向けて出発。気温は15℃、雨も風もない。先ほどの激しい雨音は夢だったのかと思うぐらい辺りは静けさを取り戻していた。ふと見ると山小屋の照明に蛾のような虫が数匹飛び回っている。標高3,000mに近い所で明かりに群がる虫がいることに不意に胸をすくわれ、しばらくその姿を見入ってしまう。

 登山道へ脚を運ぶと状況は一変する。山道は登山者で大混雑の大渋滞。急斜面の岩場をヘッドライトの明かりを頼りに、一歩一歩ゆっくりと進む。8合目はすぐそこなのだが、とにかく渋滞していて遅々として進まない。少し上に進み後ろを振り返ると、ヘッドライトをつけた人々が延々と列をなしているのが見る。暗闇の中に光るそれは、どこかにぎやかでお祭り屋台の明かりのようにも見えた。

暗闇の中ヘッドライトが登山道を浮かび上がらせる

 8合目、2つ目の山小屋を通過したあたりで休憩が告げられた。と、同時にメンバーの1人が頭痛と吐き気を訴える。見れば顔面蒼白。僕は頭痛薬を半錠だけ彼に渡し、先達2人に協議して頂く。ベテラン氏が体調不良者に付き添いに回り、ヤング氏が我々を誘導することで合意する。先達2名体制がここで功を奏す。僕は引き続きしんがりの役目を負った。1人抜けたパーティはしばし無言となり、渋滞する岩場を一歩また一歩と進んだ。

 1つ山小屋を超えたところで、ヤング氏がルートを変更することを告げた。どうやら渋滞に業を煮やしたらしい。僕らは彼の後をついて行くしかなかった。その時は分からなかったが須走(すばしり)ルートの登り、吉田の下山ルートを使って頂上を目指すことになったのだ。
 それまでの足場が一変し、柔らかな砂礫の斜面となった。一応の登り方、脚の使い方を手解きされた僕らは砂塵を踏みながら再び上昇を開始する。
 するとすぐに隊列にいくつかの間隔が空き始めた。ヤング氏の足取りは至極ゆっくりなのだが、環境変化、順化がうまくいかずに体調を崩したメンバーが、ペースを合わせられなくなっていた。僕はそんな彼らの背後から様子を伺い、それとなくヒアリングしながらヤング氏に進言しつつ、ペースの遅いメンバーを前方に送った。時計は1時を回っている。7合目を出てから3時間が経過していた。

 標高3,000mの漆黒の闇、ヘッドライトに照らされた足元の赤黒い礫を食い入るように見つめながらひたすら斜面を登る。ルートは蛇腹折りで、折れ曲がるところで短くて3分、長くて7分の休憩が入る。

 僕はメンバーに声を掛け様子を伺う。皆それぞれ苦しい中、頂上を目指し頑張っているのがよくわかった。ここまで来て、後戻りの出来ないことも理解しているのだ。とにかく頂上まで辿り着くこと。もうそれ以上でもそれ以下でもないようだった。
 ちなみに僕は疲労感は殆どなく、ただただ酸素欠乏せぬように意識して深呼吸を繰り返した。日頃体を動かしているおかげで体力的には問題はない。継続的にトレーニングを重ねているお陰で、高地での行動も無難にこなせるようになっていたようだ。

 蛇腹をあと2つ登れば山頂という所で、8号目で体調を崩したメンバーがベテラン氏に率いられ我々に追いついてきた。聴けば自身を鼓舞して皆を追いかけたらしい。本人の意思もなかなかだが、それをサポートするベテラン先達の腕に舌を巻いた。

 3時10分すぎ山頂に到着。山頂で突然、雨と風が激しくなった。登頂を果たした人々でごった返して賑わっている。3軒の山小屋はまだまだ空席が目立ち、すぐに入ることが出来た。人々の表情は悲喜こもごも、疲れを癒すと同時に下山に向けての準備をはじめているようだった。(続く)
山頂にて、スマイル!



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