12/3(土)
朝5:40に起床。TVをつけるとフィリピンでの地震による津波警報のニュース速報が流れていて物々しさを感じた。モニターに目を配りながら支度をせねばとポットで湯を沸かす。昨晩購入した白飯と地元のちょいクセのある味付けきんぴらをおかずに簡単に朝食を済ます。
ホテルを発ったのは7:00過ぎ。ゆいレールに乗り奥武山(おうのやま)公園駅で降り、モノレールに沿って壺川駅までジョグ。指定された待ち合わせ場所は駅を出た目の前、川を渡った奥武山公園入口のトイレのすぐ横だった。
朝食以降、どういうわけか気持ちが悪くなって何度かえずいた。原因は判りかねたが、時間が経てば良くなるだろうとなるべく気にしないようにして目的の場所へ向かう。
集合場所には既に何人かがいて見知った顔をみつける。実に4年ぶりの再会だ。オンラインのやり取りはあったが面と向かうのは実はこれが2度目だ。
多少の照れはあったけれどみるみる消えていった。地方から来たぼくに皆が無条件に優しく気を遣って接してくれるのでつい甘えてしまう。会話に夢中になっているうちに原因不明の気持ち悪さもどこかへ消えていった。
整列の時間が近づいてきた。メンバーで円陣を組んで右手を出し、親指と小指を隣同士で絡め合わせながら「あんぜんだいいちー」とキャプテンの発声に合わせ「オー!」と応える。キュッと気持ちが引き締まる。それにしてもかけ声が安全第一とは。つい顔がほころんでしまう。
スタート会場の奥武山公園の様相はまさに人だらけだった。見渡す限りジョガー&ジョガー。脚の踏み場がないぐらいジョガーだらけだ。参加者は2万人は下らないそうだ。
近隣の国の参加者も散見される。コスチュームにプリントされた文字でおおよそ判別できた。中国、台湾に韓国・・・。かつてこの地に築かれた王国は独自の慣習と文化と共に、大陸から多大な影響を受けていたと語り継がれているが、海路を経由してそれらが伝播するのは難しいことではない。地政学上、互いに影響を及ぼし合える位置にあり人やものの往来がそもそも頻繁なことを伺わせた。
スタート時の気温は21℃。風の吹く場所はとても清々しいが、雲の切れ間から熱を帯びた陽光に照らされるとじわじわと汗ばんでくる。万人参加の大会はさすがにジョガー密度が高い。薄雲に覆われた那覇の空の下、同じグループのHさんとKさんと整列をして号砲を待った。スタート直前まで冗談めいた面白おかしい話をしたのは初めてだった。緊張とは程遠いスタートとなった。
号砲が鳴り、隊列が順序良く進行を始める。走り出しのストレスはほとんどなかった。われ先にと隊列を縫うようなジョガーも少なく、譲り合う光景の方が散見された。けれどもし時計にこだわるなら、もうひとつ前のグループが良いのかもしれない。
那覇マラソンは沖縄本島の南部を周回するコースだった。記憶を繋ぎ合わせてふり返ってみたい。多かれ少なかれ実際と異なることはあるだろうがお許し願おう。
スタートは那覇市内の中心部。起伏が多く激しいところもある。有名な繁華街、国際通りの左右の沿道には人だかりで溢れていた。地元のジョガーへの声援、いってらっしゃいの声、そして止まない拍手。沿道からの声援に圧倒されつつ、その熱に感心しながら、ぼくはチラチラと時計を覗きみてオーバーペースにならないように気を配る。
市内地のコースではジョガーの群れの中で、なかなか身動きがとれず5km付近のエイド補給を取り損ねてしまう。得てして位置どりの問題だった。それとジョガー数の割にエイドが短かい。これから先もこんなだと水分補給がままならいぞと思った。しかし、それは全くの杞憂だった。
最初のエイド付近を皮切りに、沿道からの差し入れが途切れることなく続くのだった。既知のそれではないほどに。水、スポドリ、氷、氷袋、みかん、飴、チョコ…。声援のあるところに必ずといっていいほど補給が差し出されている。私設エイドの数は日本一かもしれない。近所の世話焼きの方が、もう十分だというのにこれでもかと差し入れを届けてくる感じだ。これはこのマラソンの最大の特徴だとぼくは思う。
7kmあたり。バイパスにつながる勾配のきつい上り坂が現れる。頂上を目で追うとフォームが乱れてしまうので、視線を下に落とし肘を上げる。上り坂が長く感じた。頂上左手に広がる那覇の住宅街のパノラマは登り終えたご褒美みたいだった。
上りがあればその分の下りもある。ホッとしながら下っていくと大音量でYMCAの曲が流れ、前方の多くのジョガーがサビに合わせてYMCAの振りをやっている。
ぼくは1度目はスルーした。が、2度目はついつられてしまった。すると右手沿道の台の上に立つマイクを持った男性が「みなさーん、ムダな労力、本当にありがとうございまーす!」とそれは嬉しそうに喋っている。
なぁーんだ、そういうネタかと高をくくっていたが、少し間をおいて「でも、みなさーん朗報があります。あとたったの35kmです!」
表情を崩さずにはいられなかったし、普通ならばズッコケるリアクションなのだが走っているのでさすがにそうはいかない。MCの彼は、これから続くジョガーの隊列にもYMCAをさせて、その決まり台詞を放っては笑わせねばならないのだ。そっちの方がよっぽどすごい。
マラソンの後から聞いたのだが、各地に行われるマラソン大会のYMCA芸の元祖が当地らしい。捻りの効いた応援のひとつだ。それを受け入れる風土も粋だ。多くのジョガーが親近感を抱くの当然。それにしてもこの7km付近で、あと35kmとは考えたことがなかったので、確かにそれは長いナァと萎えてしまいそうだった。
坂を上っては下るをひたすら繰り返した気がする。10km過ぎ、それから11~12kmあたりの上りもひどかった。視覚的にもヤバイく気のめいる風景だった。頂上到達地点でガーミンを覗いたがなんとキロ7分ペースまで落ちていた。
残念なのは、まだまだ上りは続くのだ。その先の14kmあたりも長かった。頂上付近と思われる信号機になかなか辿り着けない印象だけが残っている。
街中と比べれば沿道の人びとの密度は下がるけれど、ふと顔を上げれば何かしらの差し入れが視界に飛び込んでくる。ポッキンアイス、沖縄では「チューチュー」と呼ばれる氷菓が私設エイドのメニューとしてあらわれはじめた。それから企業名の入ったのぼり旗を掲げた架設テントのエイドが見られるようにもなった。とても大掛かりなものあった。もちろん公式のエイドだってちゃんとある。これらのおもてなし精神は特別な一部の方々によるものでなく、歴とした沖縄の文化なのだと確信した。ただただ感心するばかりだった。
17km地点(具志頭交差点)は下りながら右折する。どういうわけだろう、ここの風景がなぜか脳裏に焼きついている。既視感のある南国の光景が広がった。背の高い緑豊かな自然のなかで、時間(とき)の香りの嗅ぐわう堅牢なコンクリートの建物がコントラストを描く。そして相変わらずの沿道からの声援は途切れない。高低表ではこのあたりから20km地点まで上り坂が続くのであった。
そんな上りの途中、鉄腕アトムの主題歌を演奏するバンドがいる。ここに至るまでにも多くの演奏者がいたが、このアトムの楽曲が耳から離れない。チラ見すると演奏のみなさんは恐らくシニア以上で、ぼくよりも齢の上の方々のようだった。戦後20数年間、本土とは異なる時間を過ごしてきた沖縄。鉄腕アトムで繋がる世代なのだ。
ようやく20km、上り坂が終わる。左には糸満の美ら海がパノラマで展開する素晴らしい眺めだった。そしてそこは今回のマラソン攻略の中でひと区切りとなる重要な場所であった。(続く)